前回、人間は言葉を獲得したことで「心」や「自己同一性」が生まれたという話をしました。今回は、言語ゲームが人の行動や性格にどのような影響を与えるかについて考えてみたいと思います。
日常の行動は言語ゲームに規定される
私たちは幼稚園、小学校、中学校、高校と長年かけて成長する中で、学校の授業など特定の場面ではじっと静かにしていないといけないなど、様々な社会のルールを学びます。たとえばクラシックコンサートでは静かにして聞くのがルールですが、子供は声を出したり走り回ったりと、じっとしていないものです(そのため多くのコンサートでは年齢制限が設けられています)。大人であれば、コンサートホールでいきなり奇声を上げる人はいないし、走り回る人もいないでしょう。運動機能的にはできるけれど、そんなことはしないわけです。そもそも、そのような行動をしようという考えが頭に浮かぶことすらないでしょう。
そういったことに対して大人は「子供だから我慢ができない(のは当然)」といった解釈をするわけですが、哲学的に考えると、子供は「(コンサートでは)静かにしている」というルールの言語ゲームに参加していないと解釈することもできます。先ほど大人はコンサート中に奇声を上げたり、走り回ったりといった考えが頭に浮かぶことすらないと言いましたが、これは「静かにして聞く」というルールを改めて意識することなく、そのルールに盲目的に従っているからです。先にも述べたとおり、人は長年かけて成長するなかで様々な社会のルールを経験を通して学びます。その結果、無意識のうちにそれらのルールに従うようになります。それが社会化であり、言語ゲームに参加するということ(ヒトから人間になるということ)です。
ここで私が言いたいことは、どのような言語ゲームに従っているかがある場面での人の行動を決めているということです。人が複数存在するところには「場の力」とでも呼べるものが働いていて、みなさんの行動を制限しています。その集団における自分の立場やその場の状況など、さまざまな要因から「力」が働き、その場での人々の行動や思考が決まります。その「場の力」が言語ゲームのルールなわけです。ある個人(の脳)が単独で思考や行動を起こしているわけではないということです。
常識的にはそれぞれの個人は独立した存在だと考えられていますし、みなさん自身そのように思っているでしょう。でも、以上のような視点から考えると、個人というのは独立した存在ではなく、その場に存在する他者とある種のネットワークを形成するノード(結節)だと考えることができるわけです。

言語ゲームでの役割が人の行動を決める
誰でも自宅の部屋で1人いるときと、周りに人がいるときで行動は違うでしょう。また、周りにいる人がいる場合でも、それが友人であるか目上の人であるか、はたまた全く知らない人であるかで、その時の感情や行動が違うはずです。「役職が人を育てる」とか「朱に交われば赤くなる」といった言葉があるように、頼りなかった人が責任ある立場になったとたん立派になるとか、真面目だった子が悪い友達とつるむようになって不良になるといったことはよく聞くことです。「You are the average of the five people you spend the most time with.(あなたは一緒に過ごす時間がもっとも長い5人の平均になる)」というアメリカの起業家ジム・ローンの言葉もあります。このように「人の心」はその場の状況や他者との関係で常に変動しているのです。
これは言語ゲームでの役割が人の行動や考え方に影響することを意味しています。このことを実験的に示した「スタンフォード監獄実験」という心理学の有名な実験があります。これは1971年にアメリカのスタンフォード大学心理学部で行われた実験で、刑務所に近い設備を実験室内に再現し、そこで普通の大学生を看守役と受刑者に分けて、それぞれの役割を演じさせたというものです。もともとは普通の大学生だった被験者は、時間が経つにつれて、看守役は実際の看守のように威圧的な振舞いをするようになり、受刑者役は服従的な振舞をするようになったと報告されています。この研究結果も、その場で行われている言語ゲームでの役割が、そこにいる人々の考え方や行動を決めるということを示唆しています。
以上のことは個人の性格(=心)と考えられているものは固定されたものではなく、流動的で変化するものだということを示唆しています。「心」に確固不変な実態はないと言っても構いません。
「本当の自分」はない
では一人でいるときは特定の役割から解放された「本当の自分」と言えるのでしょうか?人前では自分を抑えて「偽りの自分」を演じていると感じている人もいるでしょう。
でも私はそもそも「本当の自分」なんてないと思っています。さきほども言いましたが、「あなた(=心)」とは何か不変の“コア(核)”があるものではないというのが私の考えです。大勢の人がいる場面では引っ込み思案なのに仲のいい友達といるときはよくしゃべったり、いつもは真面目なのに時にはふざけたり、人前ではきちんとしているのに一人ではだらしなかったりといったことは別に珍しいことではありません。「心」とは状況に応じて反応が変わる“脳-身体”のシステムであり、本心を偽って役を演じている自分も、見せかけだと思っている自分も、すべてをさらけ出した自分も、その全てを含めて「あなた」です。言ってみれば誰もが多重人格なのです。
対人関係の問題は性格だけが原因ではない
人間関係が苦手と言う人は多くいます。そしてほとんどの人は自分の性格がその理由だと考えています。でもそれは違うのではないのではないかと私は思っています。
現代社会は核家族化が進み、さらに夫婦共働き、少子化で、子供たちが違う世代の人と交流する機会が昔に比べて格段に減っています。異なる世代との交流は、通常の学校生活で行われる同世代の仲間との交流とは違う役割を要求されます。それは多様なルールの言語ゲームに参加するということでもあります。
さきほど、言語ゲームでの役割がその人の行動や考え方、つまりは性格に影響を与えるという話をしましたが、普段とは違う言語ゲームに参加し、新たな役割を演じることで、それまでとは違う“性格”が引き出されると考えられます。そして多様な言語ゲームに参加することで、私たちは様々な“性格”を持つようになります。それが人間としての“深み”を作るとも言えます。
人間関係が苦手だという人は、これまで多様な言語ゲームに参加したことがなく、様々な役割を“演じて”こなかったという経験不足によって、ある場面でどのように反応すればいいか分からないため、不安や不快さを感じているのではないでしょうか。そしてそれは自分だけではなく、相手も同様なのだと思います。現代社会において、多くの人が固定化された役割しか演じてこなかったため、いろんな状況に1つの“性格”で押し通そうとすることから人間関係に軋轢が生じているのではないかと私は思うのです。
その6に続く
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