私はこれまで哲学や心理学、神経科学に興味があって長年、様々な本を読んできました。そこから得られた知識をまとめる意味で、言葉と心の関係について自分なりの表現でまとめてきました。今回は一連の考察の最後として、これまでの内容を踏まえた上で、私たちはどのように生きていけばいいのかという人生論を考えてみたいと思います。誰かにとって、新しい視点から人生を捉え直すきっかけになれば幸いです。

日常生活と言語ゲーム

人は生まれた後、物心がついて、学校などの社会生活ができるような年齢になるころには何かしらの言語ゲームを行うようになっています。複数の人が同じルールのもとで行動すること、言ってみれば人間の活動そのものが言語ゲームです。たとえば、多くの人は小学生のころからちゃんと朝起きて学校に行き、勉強したり友達と遊ぶといった生活をしてきたと思います。学校の始業時間に間に合うように朝起きて家を出るのは「学校へはちゃんと行くべき」「遅刻するのは悪いこと」という暗黙のルールがあるからで、みなさんはそのルールに従って行動してきたわけです。

スポーツやゲームにルールがあるのと同じように、ほとんどの人間活動にはルールがあります。校則や法律のような明文化されたルールもあれば、暗黙のルールもあります。ウィトゲンシュタインが人間の活動全般を「言語ゲーム」と呼んだのは、言葉には人々の生活様式や文化が反映されており、人間活動のルールと言葉のルール(世界の切り分け方)が対応しているからです。実際、言語ゲームは言語行動にとどまらず、あらゆる場面での人間の行動をルール付けています。言葉はあくまでもコミュニケーションの道具にすぎず、人々の行動(生活)が先にあるからです。進化的に見ても、言語が発明される前から我々の祖先は協同で生活をしてきたわけですから、このことは明らかでしょう。また国や地域によって様々な文化があり、生活様式が異なります。人間の活動はすべて何かしらの言語ゲームであり、世界では数えきれないほどの多様な言語ゲームが行われているのです。

言語ゲームと競争

日常生活をしているとき、自分が「ゲーム」をしているという感覚はありません。これはスポーツをしているとき、人はそのルールを特に意識することなくプレイするのと似ています。たとえば野球をプレイしている人はその最中に「なぜボールを打ったら(三塁ではなく)一塁方向に走るのだろうか?」「そもそもなぜバットでボールを打たないといけないのだろうか?」といったことは絶対に考えないわけです。スポーツをしているとき、そのルールの大半は意識から消えています。だからと言ってでたらめの行動を取っているわけではなく、ゲームに参加している人はちゃんとルールに従った行動をしています。無意識のうちにルールに従っているのです。

また、さきほど人間生活の全ては何かしらのゲームだと言いましたが、ゲームには競争がつきものです。ゲームとはあるルールに基づいて競い合うものなので、うまくできる人とそうでない人がいます。学校で勉強するというのもゲームです。そのゲームでは「勉強はできた方がいい」「テストで高い得点が取れた方がいい」「偏差値が高い学校のほうがいい」というのがルールでしょう。そして多くの人はそのルールが“正しい”と思い込んでおり、時としてそのようなルールは“絶対的”な価値を持つようになります。そして、そのゲームでうまくできない場合(つまり勉強ができず成績が悪い場合)、自分はダメな存在だと思ってしまう人も出てきてしまいます。しかし、全てのゲームでうまくやれる人などいないわけですから、当然、人によってうまくできるゲームとできないゲームがあります。「勉強すること」というゲームでうまくやっていた人が、「社会に出て働く」というゲームでは失敗するということもよくあることです。

自分が得意な言語ゲームを見つけよう

いじめや不登校など、学校生活(という言語ゲーム)でうまくいかなかった子供が自殺してしまうケースがあります。そのようなニュースを見るたび、年齢が近い子供を持つ私は心が痛みます。大人からすれば、学校生活というのは人生の中の短い期間に過ぎず、学校でうまくいかなかったとしても大人になれば別の人生が待っているのに、と思ってしまいますが、人生経験の短い子供は学校生活が人生の大半を占めているので、そういうわけにもいかないのでしょう。学校が唯一の世界だと思い込んでしまっているわけです。

野球が下手だからといって人生が終わったなどと考える必要がないように、あるゲームでうまくいかなかったからといって自分の人生はダメだなんて思う必要はないわけですが、日常生活における言語ゲームはそれが難しいものです。その理由は野球などのゲームと日常生活の間に決定的な違いがあるからです。スポーツなどの場合は試合が終われば日常生活に戻ることができます。つまりここからここまでがゲームだという区切りがはっきり分かりますから、それが一時的なもの(つまり人生の全てではない)ということが誰でも理解できます。それに対して日常生活の言語ゲームは毎日の生活そのものがゲームの舞台であって「戻れる場所」がありません。そのため多くの人は自分が今やっている言語ゲームが人生の全てのように感じてしまいます。だからある言語ゲームでうまくいかなかった人が、自分の存在全てがダメであるかのように思い込んでしまうことが起こるのです。

この問題を解決する方法は、自分がやっている言語ゲームから抜け出すことです。そして、そのためには別の言語ゲームを始めることが必要です。人は社会の中で何らかのルールに基づいて行動している以上、あらゆる言語ゲームから完全に解放されることは不可能です。人はいかなるときも何らかの言語ゲームをしているのです。ただ、別のゲームの存在を知ること、つまり今までとは全く違う価値観の存在を知ることで、特定の言語ゲームの影響力を弱め、別の言語ゲームへ切り替えができるようになります。たとえば海外に出たり、違う世代の人と交流したりして、これまでとは違うルール(生活様式や価値観)のなかで生活を始めることがそのきっかけとなるでしょう(※1)。

※1 私も20代の後半のとき50~70歳の人が主催するマイコンクラブで活動した経験や、30代前半で数年間アメリカでの生活をしたことが、自分の考え方や価値観を大きく変えてくれました。

人生は様々な言語ゲームに参加すること

このように考えると、人生とは様々な言語ゲームに参加していくことだと言えます。子供のころは親など身近な人が行っている言語ゲームだけを“プレイ”していたのが、大人になり様々な体験をするなかで違うゲームの存在を知るようになります。違うルールの言語ゲームを知るということはまさに「世界が広がる」ということです。

経験する言語ゲームの数が多ければいいというわけではないかもしれません。人によっては、一生のうち、限られた数の言語ゲームにしか参加しなかった人もいるでしょうし、運良く、自分に合った言語ゲームが早い段階で見つかれば、それに越したことはないのかもしれません。ただ、様々なルールの言語ゲームに参加すること、つまりいろいろな文化や価値観に触れることは、この世界における自分の立ち位置を俯瞰的な視点で客観視するのに役立つのは確かです。自分が“常識”だと思っていたものが、単なる“ローカルルール”だったと知ることで、「自分は正しい」と思い込むワナを避け、考え方が違う他人に寛容になれるのではないかと思います。

今の自分に満足していないなら、現在(無意識のうちに)行っている言語ゲームが自分に合っていないのかもしれません。でも、あるゲームでうまくいかなかったら別のゲームを始めればいいわけです。世の中にはまだまだ知らないゲームがいっぱいあるし、なんなら自分で新しいゲームを作ったっていい。そのためにはまず、自分がどんなゲームをしているのかを把握する必要があります。そしてそのゲームを続けるのか自分自身に尋ねてみましょう。どんな言語ゲームをするかは、最終的に自分の価値観に行きつきます。自分の価値観は案外、自分でも分かっていないものです。それをはっきりさせるためにも、多くの言語ゲームに触れることが必要で、それが人生を豊かにするのだと私は思います。

さいごに

私のモットーは「人生楽しんだ者勝ち」です。子供の心を忘れないことが大事だと言われることがありますが、大人は「当たり前」「つまらない」と思うものでも、子供は好奇心を持って世界を楽しむことができるからでしょう。子供が“遊びの天才”と言われるゆえんです。

大人がそのような子供の心を取り戻すには、「当たり前」にあふれた日常から離れて、これまで知らなかった新しい言語ゲームに飛び込んでみるだと思います。それは海外に出ることかもしれませんし、ボランティア活動などで普段交流がない人と関わることかもしれません。ありきたりの結論かもしれませんが、世の中の真実というものは、すでに言い古されていることに“一周回って”気付くことなのではないでしょうか。