前回に引き続き、言語と心の関係についてまとめていきたいと思います。
言語ゲーム
言葉の意味について歴史上、とても重要な見解を示した哲学者がいます。オーストリア生まれの20世紀の哲学者ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインです。

ウィトゲンシュタインの哲学は前期哲学と後期哲学で大きく変化しますが、後期哲学の柱に「言語ゲーム」という考えがあります。言語ゲームは、言葉の意味にはどのような裏打ちがあるのか、言葉が機能する理由は何であるかについての考えだと私は理解しています。
まず「ゲーム」という語ですが、これは野球やサッカーといったルールのある活動全般のことです。「言語ゲーム」という呼び方は、人間の言語活動もそういったルールに基づく活動だという考えによるものです。
人間が行う「ゲーム」にはいくつかの特徴があります。以下、それらについて説明していきたいと思います。
ゲームのルールは恣意的
まずゲームのルールは恣意的であるという特徴があります。たとえば野球において、バッターがボールを打ったら一塁方向に走りますが、三塁方向に走ってはいけない”必然的な“理由はありません。ここで言う”必然的“とは、人間の身体機能として通常のルールである反時計回りとは逆の時計回り(つまり三塁→二塁→一塁)の順に回ることができないわけではないということです。他のスポーツでも必然的なルールはほとんどないはずです†1。もちろんルールはゲームを面白くするために存在しているわけですが、そうでなければならない絶対的な理由はないのです。
†1 第三者の視点からルールに疑問を持ち、新しいルールが生まれることはあります。時代とともにスポーツのルールが変更されることもあれば、サッカーからラグビーが生まれたように全く新しいスポーツが生まれることもあるわけです。
ルールの恣意性は言語でも見られます。たとえば果物の“りんご”を「り・ん・ご」と呼ぶ必然性はなく、「アップル」でも全く違う他の呼び方でもよかったように、対象とそれを表す言葉(音や記号)との間に必然的な関係はないのです。
また言葉による世界の切り分け方に関しても必然性はありません。たとえば文化によって色の分け方が違うことはよく知られています。日本では虹は7色ですが、アメリカでは6色、インドネシアでは4色、南アジアのバイガ族という民族では明暗2色にしか分けないそうです。また、専門家は普通の人は知らないものの名前を知っていたり、微妙な違いを区別できたりしますが、いくらでも世界を細かく切り分けていくことができるわけです。
さらに文法も恣意的です。文法はまさに言語のルールですが、英語のように主語+動詞+目的語の順番の言語もあれば、日本語のように主語+目的語+動詞という語順の言語もあるように、「そうでなければいけない」ルールはなく、言語によって”たまたまそうなった”ルールがあるだけなのです。
ルールに疑問をもたない
あるゲームをしている人はそのルールに盲目的に従っています。盲目的にルールに従うとは、ルール自体に疑問を挟むことはないということです。野球選手がボールを打ったら一塁方向に走るのは”当たり前“であって、「なぜ一塁方向に走らないといけないのだろう」と悩むことはないわけです。あるゲーム(スポーツなど)のルールに疑問を感じる状態というのは、そのゲームをまだ理解しておらず、ゲームのプレイに溶け込めていないわけです。
言語においても、なぜそのように言うのかネイティブでも分からない表現はあるものです。たとえば日本の慣用句「(悪事に)手を染める」、「足を洗う」は誰でも知っているでしょうが、なぜそのような表現をするのか知っている人はあまりいないでしょう。また「私は」「あなたは」のように主語に続く「は」は「wa」と発音しますが、これもなぜそうなのか、なぜ「私わ」「あなたわ」ではいけないのか、知っている人はほとんどいないはずです。
(スポーツでも言語活動でも)あるゲームに入り込むための条件は、そのルールの理由を知ることではなく、そのゲームのルールが当たり前となり疑問を感じなくなることだと言えます。このように私たちは、理由はよく分からなくても、日常生活で疑問を感じることなく、無意識のうちにルールに従って言葉を使っているのです。
生活様式が言語ゲームのルールを決める
前回、文化によって言葉による世界の切り分け方が違うという話をしました。しかし、文化の違いは言語表現の違いだけにとどまりません。文化とはそこで暮らす人の生活様式の表れであり、その生活様式が言語に色濃く反映されているのは不思議なことではありません。
文化の違いの例を見てみると、たとえば食事の時、日本では食器をもって食べますが、アメリカではもって食べません。日本食において食器を持たずに食べること(特に汁物など)は困難で、食器を口までもっていくのは必要なことですが、そういった文化がない欧米人からすると最初は少し戸惑うようです。逆に欧米のレストランで食器をもちながら食事をするとマナー違反として奇異な目で見られるでしょう。人間の身体機能として食器を持つことは簡単にできるわけですから、食器を持たないで食べることは”必然的“なルールではないわけですが、欧米ではそういったルールに従って食事をするわけです(ほとんどの人は明確な理由なく、そのルールに従っていることは先に述べた通りです)。
親子関係も文化によって違いがあります。日本ではいつまでも親は自分の子供を保護下に置こうとするのに対して、アメリカでは小学生くらいから自立性を重んじ子供の意思を尊重する傾向があります。たとえば、日本では中学生になる頃まで親子一緒に寝るのはよくあることですが、アメリカでは小学生は個室で一人で寝るのが一般的となります。日本では「子供は親の言うことを聞くのが当たり前」と考えるのに対し、アメリカでは「子供は独立した一つの人格をもった人間であり、子供が自分の意見を言うのが当たり前」と考えます。日本の親子は距離感が近くベッタリしているのに対し、アメリカでの親子関係はもっとドライと言うこともできるでしょう。これも長年の歴史で形成された、その国の文化(=生活様式、ルール)による違いです。
海外旅行などで違う文化に触れたとき、その文化を尊重できればいいのですが、残念ながら相手のことを否定してしまう人もいます。しかし当然のことながら、文化の違いは絶対的な”正しさ“に基づくものではありません。それは単にルールの違いであり、サッカーとラグビーはどちらが優れているとか、どちらが正しいとか言うことはできないのと同じです。不要な摩擦を避けるためにも、この認識は重要だと私は思います。
その3へ続く
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