
サヤカ、シュン、今日は大人になるってどういうことか話そうと思う。これは父さん自身の考え方で、誰もがそう思っているわけじゃないけど、二人には伝えておきたい内容なんだ。
日本の法律では子供のことを未成年、大人のことを成年と呼ぶけど、これは年齢によって決められている。2021年9月の今は20歳がその境目だけど、2022年4月からは18歳に引き下げられるから、サヤカとシュンは18歳になったら法律上は大人というわけだ。このように年齢を重ねれば誰でも成人にはなるけど、今日話したいのはそういった法律上の話じゃない。「人間とは何か」といった、もっと哲学的な話だ。
大人レベル1: 社会のルールを守る

「大人」と言ってもいろいろな人がいる。ただ年齢を重ねれば体は大人になるけど、中身は子供のような未熟な大人もたくさんいるんだ。たとえば、社会のルールを守らなかったり、他人のことを考えずに自分勝手な行動をする人もよく見かける。あいさつをしたり、他人のことを考えて行動したり、社会のルールを守って生活するのは、どれも小学校で習うことで、大したことじゃない。大したことじゃないけど、残念なことにそれすらできない人もたくさんいるんだ。
父さんが考える「大人」には何段階かのレベルがある。法律や社会のルールを守ったり、仕事をして社会の一員として役割を果たしたりできるようになることが第1の段階、“大人レベル1”だ。逆に言うと、こういったことができない人はたとえ20歳を超えていても、体だけ大きくなった子供のような存在で、“大人レベル0”の人間だと思っている。単に年齢を重ねたら「大人」になれるわけじゃない。それぞれの段階はどれも自動的に上にあがれるものではなく、経験を積んだり、頭を使って考えて成長することでしかあがれないんだ。
父さんが考える「大人」かどうかは年齢によって決まるんじゃなくて、行動や考え方によって決まるということだ。父さんは相手が小学生だろうが中学生だろうが、ちゃんと挨拶をしたり、相手のことを考えて行動できる人は「大人」だと思っている。
大人レベル2: 他人と相互依存の関係を築く

じゃあ次に“大人レベル2”について話そう。人は思春期を迎えるころから、他人が自分のことをどう思っているかが気になり始める。自我の目覚めってやつだ。若いうちはその自意識が過剰になって、苦しむことも多い。むしろほとんどの人はその自意識をコントロールできずに苦しむんじゃないかと思う。自分の存在を認めてもらいたいという承認欲求は誰もが持っているものだ。特に「すごいと思われたい」「かっこいい(きれい)と思われたい」といった自分の能力や容姿に対しては承認欲求を強く持つ人だろう。
父さんも若いころ、「自分は歴史に名を残すような人物になる」と思っていたんだ。今思うと恥ずかしい話だけど、自分は他の誰よりも優れていて、将来この世の中を変えるような人物になるんだと思っていた。だけど20代後半から、うまくいかないことが続き大小の挫折を経験したり、自分よりはるかに能力の高い人たちを見る中で、そのような奢った気持ちも次第に薄れていったよ。今振り返ると若い時の父さんは「全てうまくこなさないといけない」といった不合理な思い込みを持ってたんだと思う。それは他人より自分が優れていることを証明しようと躍起になっている未熟な姿だったんだ。
当たり前のことだけど、人間がひとりでできることは限られている。苦手なことはあるし、時間も労力も限られているから、何もかも一人で成し遂げることはできない。人間は他人と協力しないと生きていけないんだ。特に仕事をする上では他人との協力は欠かせない。自分が苦手なことはそれを得意にしている人にお願いして、自分は自分の得意なことで周りに貢献する。そういった相互依存の状態が社会生活における人間関係の理想的な状態だと父さんは思っている。
年齢を重ね世の中を知れば知るほど、そしてものごとの深さを知れば知るほど、自分の能力の限界や自分一人でできることの小ささを感じるようになるはずだ。コピーライターの糸井重里さんが「他人の力を借りなきゃならないっていうことを思い付くまでは子供」と言っていたけど、まさにその通りだと思う。自分の能力の限界を知り、他人と協力すること、他人の力に頼ることができるようになること。これが“大人レベル2“だ。これは「自分が全て」だった子供のころの世界観からの大きな転換を伴う、大きな成長なんだ。
大人レベル3: 自己の存在を超える

これから大人レベル2のさらにその先、大人レベル3について話そう。このレベルに達するための条件は「自己意識から離れる」ことだ。レベル2で「自分が世界の中心」という世界観からは脱したけど、それでも自分の存在(生命)が一番大切ということは変わっていないだろう。レベル3はその価値観からも脱却した境地にある。もう少し具体的に説明するなら、自分の子供やまだ見ぬ将来の世代のことに思いを馳せ、自分が死んでこの世からいなくなったあとのことを考えられるようになることだ。これは誰もがたどり着く境地ではないと思っている。
世界全体の中で自分の存在を考えたとき、それはちっぽけなものでしかない。それを人類の歴史、さらには地球や宇宙の歴史のなかで捉え直すなら、自分の存在は無いにも等しい。このように自分の存在を認識すると、絶望的な気持ちにもなる。でもこの絶望的な気持ちの中から希望を見出し、同じ時代に生きる人たちと協力して、少しでも世界を変えようと行動を起こすこと、そして少しでも次の世代に何かプラスになるものを残すにはどうしたらいいかを考えることができるかが、“大人レベル3”に達するかどうかの分かれ道だと思う。
“大人レベル3”に達した人は、自分という存在を歴史の中の通過点として認識し、過去の歴史(先人たちの偉業、これまでの人類がつむぎあげてきたもの)から多くことを与えてもらっていることに感謝し、その恩返しとして自分の存在が消えた後もずっと続くであろう人類の歴史に自分がどんな貢献ができるかという敬虔な気持ちを持っていると父さんは考えている。このレベルに達した人は、自分の存在へのこだわりが無くなった、いわゆる無我の境地と呼ばれるような状態になっていると思う。
父さんが影響を受けたオランダの哲学者スピノザが「永遠の相のもとに万物を認識する」という言葉を残している。スピノザは「世界に存在するものは、その表れ方(表現型)は違えど、全て神である」という“汎神論”を唱えた人だ。彼の考えでは、私やあなた、動物や植物、生物と物質などの区別を超えて、それらすべてが神の一部なんだ。世界や動植物を含む自然のすべてはつながっていて、「自然、世界=神」であるという考えだ。こういった世界観を持って万物を認識すると、自分の生や死は何かの始まりや終わりではなく、ただ神(自然)の表現が変化しただけということになる。日本には「万(よろず)の神」という考え方があるから、日本人にはこのスピノザの考え方が理解できるんじゃないかと思うんだけど、どうかな?ちょっと難しかったかもしれないけど、今日スピノザの考えを持ち出したのは、自分の存在を超えて世界を認識するという“大人レベル3”に達するための手助けになるんじゃないかと思ったからだ。
さいごに
今日は父さんが考える「大人」とは何かについて話してきた。最後は哲学的でかなり抽象的な内容になったから、うまく伝わったかどうか分からないけど、この考えは一度言葉にしておきたかったんだ。今回は3つのレベルに分けたけど、それは便宜的なもので、本当はもっと細かい段階に分かれるかもしれない。今日の話は父さんが考えている「大人像」や「人間像」について大まかに理解してもらうために話をしたと思ってほしい。また機会があれば、もっと分かりやすいように説明できればいいなと思っている。
今日のところはこれでおしまい。じゃあ、またね。
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